家康の落胤と言われた名宰相・土井利勝の「誤算」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第26回
■本多正信・正純父子という教訓
利勝が活躍する以前を振り返ると、幕政の中心を担っていたのは本多正信と正純の父子でした。正純が駿府の家康の側近として仕え、正信が家康の意向を江戸の秀忠たちに取り次ぐという体制だったため、本多父子の権勢は非常に高まりました。
しかし家康に続いて正信が死去すると、秀忠付きの年寄となった正純は、これまでの経緯もあり秀忠やその側近から疎まれるようになり、最終的には謀反を疑われて流罪となります。
そして、秀忠の信頼が厚い利勝を中心とした体制へと移行し、以後辣腕(らつわん)を振るっていきます。1635年に家光の側近へと後押しされた嫡子の利隆も出世を重ね、後の若年寄と同様の役職にまで上りつめます。しかし、本多父子と同様に、嫡子である利隆の側に問題がありました。
■利勝の計画を狂わせた「誤算」
それは利隆の重臣としての能力不足です。利隆は幕府重臣の貴公子として育てられた影響か、人間性や素行に問題が多かったようで、それを理由に職を罷免されます。利隆の罷免は、その失敗が大老である利勝に及ぶのを懸念したためとも言われていますが、これは利勝が持っていた権力への反作用もあったかと思われます。
さらに、もう一つの「誤算」が利勝自身の老いと病です。利勝は1638年に中風(ちゅうふう)を患(わずら)い政務に支障をきたすようになります。そのため、執務に忙しい老中から名誉職に近い大老へと押し上げられてしまいます。利勝はこれにより、大きく勢威を落としてしまいました。
もし利隆が家光の元で老中となっていれば、土井家は安泰でしたが、二つの「誤算」により。本多家とは異なり穏便なかたちですが、土井家も幕政から排除されてしまいます。ただ、利隆の人間性に問題があったのは確かだったようで、その後家臣の手によって強制的に隠居させられています。
■計算や予測では御しがたい要素がある
さらに、利勝自身が大名統制で利用した末期養子の禁によって、自分の死後に土井家が改易の対象となるという「誤算」もありました。利勝の多大な貢献を省みて土井家は辛うじて存続を認められますが、結果的に4万石の減封を受けています。その後も土井家は10万石クラスに復帰する事はありませんでした。
現代でも先見性に優れた政治家や経営者でも、読み切れない事由により政策や事業を頓挫させてしてしまうことは多々あります。
但し、利勝は次代の幕政の中心を担う松平信綱(まつだいらのぶつな)と縁戚関係を結び、他の息子たちに知行を細かく分けさせるなど、土井家存続のために手を尽くしていました。「誤算」をカバーできるよう、事前にリスクヘッジをしていた点は、家康とどこか共通するところがあり、落胤説に真実味を持たせていると思います。
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